世界ふしぎ発見で紹介
定説では織田信長は明智光秀の謀反で本能寺で自害、その焼け跡から遺体は見つからなかった
愛知県にある西山自然博物館には織田信長のデスマスクが存在する
館長の西山氏は織田家の血筋の方
●漆黒の侍:彌助
1581年2月23日、キリシタン国から黒坊主が参上。年の頃は26、7、全身の黒いことは牛のようである。見るからにたくましく見事な体格、力の強さは十人力以上である
イエズス会 日本年報によると“信長もこれを観んことを望んで招いた。色が自然であって人工でないことを信ぜず、帯から上の着物を脱がせ、その場で体を洗わせた。しかし皮膚は白くなるどころか一層黒く光った”
信長はこの黒人を大いに気に入り家臣にして彌助という名前を与えた
海外への興味が強かった信長は大いに喜んで長々と話し込み、いくつも質問をしていたと云う
1582年4月12日の家忠日記(駒澤大学にある家康の義理の従兄弟の家忠の直筆の日記)によると
そこには信長が戦の帰り、家康のもとへ寄った際、ある人物を連れていたと書かれている
“くろ男を連れ候 身は墨のごとく丈は六尺二分 名は彌助と言う”
信長と彌助が出会う38年前、ポルトガル人が日本に漂着
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以来、宣教師や商人がアフリカを経由し、黒人のお供を連れて続々と日本を訪れるようになった
宣教師たちはキリスト教の布教を進め、次々と南蛮寺と呼ばれる教会を建設
彌助もそんな宣教師の一人、ヴァリニャーノ神父のお供としてやってきた
他にも当時の道具には黒人がデザインされたものが多くあり、彼らはどこに行っても大人気だった
信長はどこに行くにも彌助を従えていた
出会って1年後には戦にも同行させていた
イエズス会 日本年報によると“信長は彌助を厚く庇護し殿にしようとしていた”
●日本に来る前の彌助
資料によるとヴァリニャーノはアフリカでモザンビーク以外には寄っていない
当時のモザンビークはモザンビーク島という島を指す
1498年、ヴァスコ・ダ・ガマがやってきたのを始まりにポルトガルはモザンビーク島を占領
港と海軍拠点を建造し、ポルトガル領 東アフリカの首都として機能した
フランシスコ・ザビエルもココから日本に向けて旅立った
ポルトガル人はマクアという部族しか認識していなかった記述がある
彌助はマクアの人だった可能性がある
昔からマクアではヤスフェという名前の人が数多くいる
●信長最後の刻 本能寺にいた漆黒の侍:彌助
1582年6月に起きた本能寺の変
イエズス会 日本年報によると“信長に贈った黒人が信長の死後、世継ぎの屋敷に赴いた”
彌助は本能寺で明智軍と戦い、信長の死後、信長の長男:信忠のいる二条新御所へ向かった
本能寺から新御所まではおよそ10分、多くの明智軍がすでに城を囲んでいた
その中で彌助は勇敢に戦った
イエズス会 日本年報によると“長い間、戦っていたところ明智の家臣が彌助に近付き、恐れる事無くその刀を差し出せと言ったので、これを渡した。家臣は彌助をいかに処分すべきか、光秀に尋ねたところ、彼は日本人でなく何も知らないので殺さず聖堂に置けと言った”
彌助について記録に残っているのはここまで
西山家に残された記述によると
彌助は信長の首を持って本能寺から脱出した後、そこから5分ほどの場所にあった南蛮寺に首を隠した
その後、彌助は信忠の下に向かい首は別の家臣が密かに運んだと云う
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