爆報!THEフライデーで紹介
●大島渚を支え続けた小山明子の愛情
2ん院の出会いは1955年
20歳で映画デビューを飾った小山明子
そんな彼女が撮影現場で出会ったのが当時助監督の大島渚
小山に一目惚れし猛アタックした大島
結婚までの5年間で360通の手紙を送り愛を育んだ
そんな大島のプロポーズの言葉は「監督になったら貴女をカンヌへ連れて行く」
1960年、2人は結婚
小山は家庭に入り2人の子宝にも恵まれた
最高の伴侶を得た大島は世界の大監督へ階段を駆け上がっていく
そして1983年、「戦場のメリークリスマス」が世界中から大絶賛を浴びた
この作品でカンヌ映画祭に招待された大島
結婚から23年、プロポーズの約束を果たした瞬間だった
公私ともに順風満帆だった大島夫妻、突如2人を悲劇が襲う
1996年2月21日、映画祭の仕事で赴いたロンドン
大島が脳出血で倒れ、意識不明の重体に陥った
それは映画「御法度」の制作発表のすぐ後の事
病状が報道されればスポンサーが離れ、映画が製作中止になる
マスコミに知られないよう小山は夫の見舞いも許されなかった
(夫の一大事に何で行かなかった)この行動が小山のうつ病発症の引き金となる
3週間後、ようやく帰国した大島と対面を果たす
だが彼女の目に飛び込んできたのは半身不随となり言葉も話す事が出来ない変わり果てた夫の姿だった
帰国後もマスコミを恐れ変装して病院へ通った
いっこうに回復しない大島の病状
そんな姿を見ているうち、小山の心はあらぬ妄想に支配されていく
“大島渚再起不能”“映画製作中止で多額の賠償金”
そんな見出しが頭を駆け巡った
この時、小山の精神は崩壊していた
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そしてついに事件が起きる
きっかけは息子の妻がかけた何気ない電話が始まりだった
それは大島の容態を確認するだけの電話だった
ところが精神の病んでいた小山はこの電話をこう解釈した
「先生…そうかダメ人間の私の事を相談してるんだ…私は人間失格だ…死のう」
湧きあがったのは自殺願望
家族の目を盗み家を飛び出した小山は死に場所を求めてさまよった
辿り着いたある駅で家族に自殺することを告げ、そのまま電車に飛び込もうとホームへ向かった
そして…だが飛び込むことはできなかった
かすかによぎった大島の顔が自殺を踏みとどまった
息子に連れられた精神科で医師から下された診断は重度のうつ病
精神科の閉鎖病棟へ強制入院
1ヶ月後、精神科を退院した小山は、その後大島の容体も回復し自宅へ戻った
だが半身不随の大島とうつ病となった小山、そんな2人の生活が彼女をさらに追い詰めていく
お風呂や下の世話、24時間介護の必要な大島
付きっきりの小山に自由な時間は1秒もなかった
体重は15㎏も減少、彼女は在宅介護によって身も心も限界に達していた
そのため、彼女は精神科病棟に4度の入退院を繰り返す
大島がリハビリで行っていた歩行訓練
半身不随の体で歩くのは想像を絶する苦しい作業
すると医師のある一言で小山は気付かされる
「きっと治りたいということにハングリーなんでしょうね」
(パパはまだ諦めてなんかいない、また監督してメガホンを取ろうとしている)
大島はもう一度映画を撮るため苦しいリハビリに耐えていた
小山は決意する…私が監督 大島渚を絶対に支え続ける
監督復帰という目標に向けて二人三脚で明るくリハビリに励んだ大島夫妻
そて倒れて3年…再び表舞台へ戻った大島は映画「御法度」を完成
2001年11月、再び病魔が大島を襲う
この日突然背中に激しい痛みを訴え、緊急入院
病名は十二指腸潰瘍穿孔
一命は取り留めたものの、もはや自力では動けないほど身体は衰弱
そして余命は残り数年と言われる状況だった
これまで二人三脚で生きてきた大島夫妻が最後に立てた2人だけの誓い
それは…楽しk悔いのない人生を全うする
2013年、大島は回復の見込めない危篤状態となり集中治療室へと運び込まれた
大島の意識が戻った時、小山はこう問いかけた
「ひとつだけ願いを聞いてあげる。家族といたい?家に帰りたい?お酒が飲みたい?」
すると「飲みたい…」
小山は大好きなお酒で口を湿らせ、大島は黙って美味そうにそれを飲み干した
これが2人の最後の会話となった
2013年1月15日、映画監督:大島渚 永眠(享年80歳)
小山は大島の棺に一羽の折り鶴を入れた
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