もてもてナイティナインで紹介
芸能史に残る大事件の真相
●三船敏郎と黒澤明の不仲説
数々の世界的映画賞を獲得した名コンビ
しかし1965年公開の「赤ひげ」を最後にコンビ解消
復活の日が訪れる事はなかった
●そもそも三船敏郎が俳優になったのは、東宝の入社試験にカメラマン志望でいったことがきっかけ
カメラマン志望で送った履歴書が東宝の手違いにより俳優オーディションの方へ紛れ込んだしまった
受けたくもないオーディションを無理やり受けさせられた
面接官に演技で「笑ってみなさい」と言われ、「面白くないのに笑えるかバカヤロー」とオーディション会場でブチ切れして大暴れ
スタッフが大勢で取り押さえる、たまたまその様子を目撃したのが黒澤明だった
●日本映画界の黄金コンビ
コンビを組んだ映画は全16作品で映画賞の数は150以上
1950年公開「羅生門」ではベネチア国際映画祭グランプリ、アカデミー賞外国語映画賞を受賞
なかでも黒澤監督がこだわったのが、モノクロの映画でも迫力が出るようにと雨を墨汁で黒くした「豪雨」のシーン
あまりに大量の水を撮影で使用したため、近隣が水不足になったと云う逸話もある
1954年公開「七人の侍」
スティーブン・スピルバーグ監督いわく「アクション映画の最高傑作」と絶賛
入場料120円の時代に配収14億円、現在の価値に換算すると380億円
スピルバーグは今でもアクションシーンを撮影する前に、必ず「七人の侍」の銭湯シーンを見直していると云う
さらにハリウッドで無断リメイクが相次いだ1961年公開の「用心棒」
スター・ウォーズに多大な影響を与えた1958年公開の「隠し砦の三悪人」
世界の映画史を塗り替える名作の数々を世に送り出した
黒澤監督はこれらの作品すべてに三船敏郎を起用
映画「蜘蛛巣城」で黒澤監督は三船敏郎に向かって本物の矢を撃ちまくった
●黒澤監督の演出の為の無茶な要求
・「音がうるさいから新幹線止めろ!」
絶対に無理とは思いつつスタッフは一応、当時の国鉄に交渉
その結果、東海道新幹線を20分間止めた
・「明日までにエキストラ900人よろしく!」
スタッフは大慌てして親戚から友達の友達まで片っ端から電話をかけまくり、1日でなんとか700人集めた
頑張ったスタッフに黒澤監督が一言「200人足りねぇな」と言い、帰ってしまった
・「野生のトラを捕まえ来い!」
サーカスからトラを借りてきたが、「目が死んでいる。野生のトラを捕まえて来い」
スタッフは野生の子供のトラを捕まえてきた
小さすぎると納得してくれない
監督のこだわりのあまり撮影がズレにズレ、撮影期間中に子供のトラが成長
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●世界の三船敏郎の桁違いのプライベート
三船敏郎は母の日に飛行機に乗って息子の学校の上空から大量のカーネーションをバラまいた
子供たちが母の日にお母さんにカーネーションをプレゼントできるように、と云う考えだったと云う
黒澤明の孫:加藤隆之によると、黒澤監督が「となりのトトロ」を観て号泣していた
猫バスを絶賛していたと云う
●三船敏郎とコンビを解消した黒澤監督
ハリウッドからのオファー「トラ・トラ・トラ!」
黒澤監督の脚本にハリウッドがゴチャゴチャと口を出してきたりと結局、この映画を降板した
お金と時間が膨大にかかる黒沢映画にはスポンサーからの出資が集まらず、黒澤明は映画が撮れなくなった
1971年、日本映画の未来に絶望した黒澤監督が自殺未遂
様々な困難に直面しながらも決して再び手を組むことがなかった2人
当時のマスコミはその理由を「2人が不仲だったため」と報道
1997年、三船敏郎が亡くなる
当時、病床についていた黒澤監督は三船敏郎の葬儀に参加できず…その弔辞は黒澤監督の息子:久雄さんに託されている
“弔辞 三船君 今日は君の葬式だというのに僕がそこへいけないということを、まず謝ります。いまだに足の具合が悪くて表に出られないのです。僕もこんなに辛い思いをしたことはありません。三船君。君と最後に会ったのは本多猪四郎君の葬式のときだったと思う。もし三船君に出会わなかったら僕のその後の作品は全く違ったものになっていたでしょう。君は本当によく演ったと思う。三船君 どうもありがとう。僕はもう一度君と酒でも飲みながらそんな話がしたかった。さようなら三船君。また会おう。黒澤明”
三船敏郎の孫:三船力也によると不仲説報道されていたが手紙のやり取りはずっとされてり仲は実際良かったと云う
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