伝説の引退で紹介
日本中からバッシングされた天才スイマー:千葉すず
現在、彼女は4人の子供をもつ母になっていた
1975年、横浜生まれ、5歳で水泳を始める
小学校を卒業すると単身で大阪イトマンSSに水泳留学
1991年、世界水泳選手権
15歳で出場した千葉は自由形の400mで銅メダルを獲得
女子自由形でのメダル獲得は史上初の快挙
その実力と愛くるしいルックスで千葉は時の人となった
印象的な笑顔は“すずスマイル”と言われ、水泳界のアイドルとしてもてはやされた
そしてそれは徐々にエスカレートしていく
千葉のもとには翌年開催されるバルセロナオリンピックの候補として取材が殺到した
ストイックなまでに厳しい練習に取り組んでいた彼女にとって練習後の取材は正直、負担だった
そしていつも聞かれる事と云えば「すずちゃん今朝はなに食べたの?」
まるで芸能界のアイドルへのインタビューのような質問
多い日は1日に10件以上も繰り返された
答える価値があるのか?といった質問ばかりでうんざりだった
周囲の意識のギャップに苦しんだ千葉は、やがてマスコミと対立するようになっていった
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1992年、バルセロナ五輪
千葉は16歳、初めての出場だった
女子200m自由形 決勝、結果は6位
この結果は現在も破られていない歴代最高順位
そして無名だった岩崎恭子が女子200m平泳ぎで金メダルを獲得した
レース当日までマスコミの注目もメダルのプレッシャーも一身に背負ってきたのは千葉だった
しかし栄光のメダルを手にしたのは、おそらく大きな期待も重圧も感じていなかった後輩の岩崎
複雑な思いに駆られその活躍を素直に喜ぶことができなかった
それでも千葉は岩崎に言葉をかけた「おめでとう」
1996年、アトランタ五輪 代表選考会
千葉すずは代表選考会でシーズン世界最高タイムを記録
20歳になっていた千葉はオリンピック競泳チームのキャプテンにも選ばれた
この年は世界ランク上位の選手が多く、女子チームは史上最強と謳われていた
しかしそのほとんどが10代の選手ばかり
若い彼女たちにプレッシャーが重くのしかかっていた
そこで千葉はキャプテンとして仲間たちを守ろうと決めた
まず千葉が広めたのは「オリンピックを楽しむ」という考え方だった
若い選手たちに本来の力を発揮してもらいたい
さらに千葉は“水着の自由化”を求めた
当時五輪が開催される年は連盟が指定したメーカーの水着しか着られなかった
そこでかねてから不満を感じていた千葉は、ミーティングの席で連盟に直談判した
千葉の訴えは却下された
1966年、アトランタ五輪
女子200m自由形 予選落ち、女子400m自由形 予選落ち
結局、個人種目はすべて予選落ちとなった
そして他の選手たちも結果が出せず日本競泳陣は全種目でメダルゼロに終わった
高かった期待は失望からやがて批判となり、その矛先はキャプテンの千葉に向けられた
取り沙汰されたのは大会前に語っていた「楽しいオリンピックにしたい」
この発言が批判の的となった
それはレース終了後に現地から出演した生放送のニュース番組で起きた
キャスターに煽られた形で発したそれは
「それだけメダル、メダル言うんだったら自分で泳いで獲ってくださいよ。日本人はメダルきちがいなんですよ」
この一言は問題発言として大きく取り上げられ千葉へのバッシングを加熱させた
オリンピックでの2度の辛い経験を経て、千葉は一線を退いた
しかし、その4年後 千葉は復帰
2000年、日本選手権 シドニー五輪 代表選手会で自由形200mで優勝、五輪出場の目安となるA標準記録を突破
「みんなはこの試合を目標に頑張ってきたと思うんですけど私の場合はあくまでも9月(五輪)で結果を出したいと思ってるんで…」
この発言に連盟の関係者が千葉の五輪出場に「ナメている」と否定的なコメントを出した
そして代表が危ぶまれるほどの騒ぎとなった
当時の代表選考基準は“五輪標準記録を突破した者の中から世界で戦える選手を選ぶ”と云う曖昧なものだった
千葉は落選した
千葉は連盟を相手にスポーツ仲裁裁判所へ提訴
提訴を決めてから準備に追われていた千葉はとても練習どころではなかった
もはやそこで活躍することは難しかった
それでも今後、同じ思いをする選手を出ないよう全力を尽くした
2000年8月3日、スポーツ仲裁裁判所による聴聞会
千葉側と連盟側の主張を聞き、裁定はこの日のうちに下される
スポーツ仲裁裁判所は千葉すずの訴えを却下した
2000年10月24日、千葉すずは引退した
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