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田宮二郎の長男:柴田光太郎が語る猟銃自殺の真相
●猟銃自殺した国民的スター:田宮二郎
国民的スターの誰も知らない晩年
1935年、田宮二郎は大阪に生まれる
1961年、映画「悪名」で主演の勝新太郎の相棒役に大抜擢
身長180㎝の恵まれた体格、端正なルックスで一躍人気スターの仲間入りを果たす
1962年、映画「黒シリーズ」で大映の看板俳優まで上り詰める
1966年、映画版「白い巨塔」では小川眞由美と初共演
1966年、田宮二郎と女優:藤由紀子の間に長男として生まれた
1970年代、テレビドラマに本格進出
「高原へいらっしゃい」や「白いシリーズ」が大ヒット
田宮が出演すれば視聴率は軒並み20%超え
その存在は息子の光太郎にとっても誰よりもカッコいい存在
「(父は)ヒーローでした。ウルトラマン、仮面ライダー、田宮二郎」
田宮二郎の息子と云うだけで何をしても他人から怒られなかった
度を過ぎたイタズラや悪ふざけなどやりたい放題
名門校に通わせてもらいながら全く勉強をしなかった
そんな光太郎を正しい道へ引き戻してくれたのは父:田宮二郎だった
その日も勉強をさぼってマンガを読んでいた光太郎
英語の成績が最低評価の-1に対し、田宮二郎は激怒
「今日から俺が勉強を見てやる」
息子のために深夜まで英語を教え込んだ
●猟銃自殺の1年前…田宮の奇行が現れ始める
ある日、光太郎は父の驚くべき光景を目にする
「俺はどうしたらいいんだ」と深夜、誰かに電話で意味不明の悩みを繰り返す父
時には「死にたい」とも漏らしていた
ある日、上機嫌で帰ってきた田宮二郎
「マンション10棟買ってきたぞ。明日10億必要になったからこの家の権利書を持ってきてくれ」
意味不明の行動に母は激怒
そして仲の良かった夫婦は口論が絶えなくなっていった
そんな中、追い打ちをかけるように…大女優との不倫を週刊誌がスクープ
記事によると田宮と共演女優が度々密会していると云う
これで堪忍袋の緒が切れた母
ついに母は弟を連れて別居
光太郎は父の側に残るも家族はバラバラになってしまった
この時、田宮はトンガに石油を掘りに行く儲け話に乗っていた
突然、トンガに渡航してしまった
しかしそう簡単に石油が出るわけもなく、田宮は憔悴しきった顔で帰宅
家族、金、全てを失いかけた田宮は、自分がおかしい事を認め、原因を探るため病院へ
「躁うつ病」と診断された
躁うつ病の原因は、30代半ばから始まった「薄毛」
デビュー当時から二枚目俳優として活躍していた田宮にとって頭髪が無くなる事は恐怖でしかなかった
頭髪のためにあらゆる手段を尽くしたが、その効果はなく、海外に行き植毛手術を敢行
薄毛のストレスは躁うつ病の引き金になる
さらに手術の後遺症で慢性的な偏頭痛が残り、躁うつ病は悪化
田宮が躁うつ病だと分かったことで母と光太郎、そして弟は父:田宮二郎を支えるため一致団結
光太郎「白い巨塔の撮影に入る時に、どうしようかと家族会議をやった」
●猟銃自殺の4日前…
この日は光太郎が学校のスキー合宿に出発する当日
父:田宮二郎は笑顔で送り出してくれた
これが父との今生の別れとなる
1978年12月28日…
猟銃を心臓にあて足で引き金を引いて自ら命を絶った
日本全国が異様な空気に包まれた
スキー合宿中だった光太郎は先生から父の死を告げられる
そして父の死から一日遅れで帰宅した光太郎
父の亡骸を目にした時、光太郎の脳裏をよぎったのは、父と交わした最後の言葉…
「父さん、さようなら」
それは躁うつ病の父には言ってはいけないと家族で話し合っていた言葉
光太郎「死を意識しているかもしれない人間に対し、別れるとか死ぬとか絶対に言わない、そう決めていたのに、出た言葉が「さよなら」だった。言った僕がびっくりしてしまって父親もびっくりして、二人で目を合わせて父親の方からにこっと笑ってくれた。一生ぬぐえない後悔のひとつですね」
1998年、柴田光太郎はNHKの「必要のない人」で俳優デビュー
演技に関してずぶの素人だった光太郎
プレッシャーも重なり驚く演技すら出来なかった
今のままでは通用しないと力不足を痛感した光太郎
そして光太郎が選んだ道は…英語教師
英語は全く勉強しなかった光太郎に父が毎晩教えてくれたもの
光太郎は俳優業と並行して塾の英語講師になり、生計をたてながら己を磨く道を選んだ
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