1985年8月12日に発生した日航機123便墜落事故
羽田から大阪伊丹に向かう日本航空のボーイング747が相模湾沖で操縦不能になり
18時56分に群馬県の御巣鷹山に墜落、乗客乗務員520人が死亡した
事故現場の特定は遅れ、翌日の8月13日午前5時半に長野県警のヘリが墜落現場を特定
●日航機123便墜落事故の救助が遅れた真相
米軍の輸送機C130の航空士が10年後の1995年8月末に退役
退役すると「1985年の航空機事故の救難はおかしかった」と証言
事故当日、米軍の輸送機C130がたまたま沖縄の嘉手納基地から横田基地に向かっていた
午後6時40分、日光123便の機長の緊急事態発生を伝える無線を傍受
横田基地はC130に「日航123便の後を尾けろ」と命令
午後7時20分に輸送機C130は御巣鷹山上空で現場から煙が上がっているのを発見
午後7時30分に救助を要請した
午後8時50分には厚木基地から海兵隊の救難へりが上空に到着
午後9時5分にへりから隊員2人が降下を試みようとした
隊員が降りようとしたちょうどその時、
基地から「すぐに基地に戻れ、日本人が救助に向かっている」と帰還を命じられた
事故現場に日本の救助隊が到着したのは事故からおよそ12時間経った翌朝のことだった
午後9時5分時点で降下していたら…と考えると胸が痛む
この事件は、役人のくだらないメンツやプライドが被害を拡大した人災である