奇跡体験!アンビリバボーで紹介
ミッキーの知られざる真実
●ウォルト・ディズニーの壮絶な人生
1901年、ウォルトはシカゴで建築業を営む父と母の下に生まれた
母が設計し、父が建てた家は使いやすいと評判になり売れに売れた
なに不自由なく幼い時代を過ごしたウォルト
だが4歳になったとき祖父が事業に失敗
これを受け一家は隣のミズーリ州にある静かな田舎町マーセリーンに引っ越した
自然豊かなマーセリーンで6年間も過ごし、ウォルト少年は動物に夢中になり、スケッチを楽しむようになった
ディズニーキャラクターたちが生まれるキッカケはウォルトの少年時代にあった
後にウォルトは「今までの人生で起こった出来事の中で重要な経験はほとんどマーセリーンで起こったのです。これらの経験はおそらくこれから起きるどんなことよりも大きな意味を持つでしょう」
実はカリフォルニア・ディズニーランド・パークにあるメインストリートUSAはウォルトが幼少期を過ごしたマーセリーンの街並みにインスパイアされ作られている
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1919年、18歳になったウォルト・ディズニーは漫画家になるという夢を抱いていた
絵を活かせる仕事を求め、カンザスシティにある広告会社に入社すると、一人の男と運命的な出会いを果たす事になる
同じ年で同じく漫画家志望のアブ・アイワークスと出会った
彼は抜群の画力を評価されウォルトの1か月前に入社していた
ヤンチャで明るいウォルトと引っ込み思案のアイワークス
性格は正反対だが二人は意気投合し、22歳の時に映画館で流すアニメーション制作会社を設立
だが、次第に広告制作に満足できなくなったウォルトとアイワークスはアニメーションの世界に人間の女の子が活躍する「アリス・コメディ」を生み出した
アニメーションの中に実写が入り込むという画期的な作品
それはウォルトのアイデアだった
だが「アリス・コメディ」シリーズは思うように受けず、会社は倒産
親友アイワークスは借金を抱え、広告会社に再就職、カンザスに残った
その翌年の1923年、ウォルトは兄ロイと共にハリウッドにアニメーション製作会社を設立
それがウォルト・ディズニ―スタジオのはじまり
一方、カンザスに残ったアイワークスは広告会社のアート部長としてようやく安定した収入を得られるようになっていた
そんなある日の事、アイワークスの下にウォルトから手紙が届いた
“親愛なるアブ ここはお前にとってうってつけの場所だ。やりたいことが出来る、本気だよ。子供の時に「西へ行け 西へ行くんだ!」って言われたのを覚えているだろう。なぜカンザスなんかでくすぶっているんだ。ハリウッドに来いよ。ウォルト”
アイワークスは迷わず安定した仕事を捨て、ハリウッドに向かった
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その後、再びタッグを組んだ二人は爆発的な人気キャラクターを生み出した
それがウサギをモチーフにした「オズワルド」だった
「しあわせウサギのオズワルド」は大手映画配給会社の最初のアニメーションシリーズに選ばれ大ヒット
このヒットでウォルトのスタジオはハリウッドのアニメーション会社として市場をほぼ独占するようになった
だが、オズワルドの人気の目を付けた配給会社の社長:チャールズ・ミンツにより、オズワルドの権利を全て奪われてしまった
それだけではなかった、自身のスタジオに戻ったウォルトが目にしたのは驚くべき光景だった
配給会社はオズワルドを製作したディズニースタジオをアニメーターたちを全て高給で引き抜いていた
しかしアイワークスは引き抜きに応じなかった
絶望のふちにあっても天才クリエイターの2人の心は折れなかった
ひたすら新しいキャラクターを模索した
そんな時、ウォルトの口からネズミのキャラクターを作りたいというアイデアが飛び出した
それを聞いたアイワークスはすぐさまデッサンを開始
そしてついに2人の運命を変える事になるミッキーマウスが誕生した
アイワークスは1日700枚もの原画をデッサン
通常2ヵ月かかる作業をわずうか1週間でやり遂げ、一つの作品を完成させた
1928年、記念すべきミッキーマウスの第一作「プレーン・クレイジー」
当時大西洋を横断飛行したリンドバーグをモチーフにしたサイレント作品
さらに二人は映像と音声をシンクロさせた世界初の短編アニメーション「蒸気船ウィリー」を製作
するとたちまち子供たちに人気を博し大ヒット
1930年代に入るとミッキーアニメーションは世界中で大人気になった
こうして二人はアニメーション制作で大きな成功をおさめた
一方でウォルトの胸には新たな夢が膨らんでいた
そのキッカケはウォルトが幼い娘を連れて家族で遊園地に行った時のこと…
メリーゴーランドに乗ってはしゃぐ子供を見ながら、大人はベンチに座って暇を持て余していた
遊園地は子供が楽しむための所で大人は仕方なく付き合っているのが現状だった
そんな時、ウォルトの脳裏にあるアイデアがひらめいた
「大人から子供まで全ての人が日常を忘れて楽しめる遊園地を作りたい」
すぐさまウォルトは徹夜でイラストレイターに指示を出し、たった二日間で構想図を作り上げた
それは驚くことにディズニーランドと命名され、シンボルとなる城も存在
そして現在のディズニーランドにもあるように4つの異なる世界で構成されている
ウォルトの頭の中ですでにディズニーランドは出来上がっていた
ディズニーランドの構想を思いつくキッカケとなったベンチは今でもファミリーミュージアムに大切に保存されている
そしてウォルトの構想を現実のものとする為、尽力したのがアブ・アイワークス率いるイマジニアリングだった
アイワークス達は次々にウォルトの頭の中にあるアイデアを具現化していった
そして1955年7月17日、世界初の巨大テーマパーク:ディズニーランドが開園
開園から11年後、2つ目のパークの計画を進めていたその最中、ウォルトは急性循環不全のため65歳でこの世を去った
ウォルトが亡くなった日、アイワークスは「友人を失っただけでなく私の才能の最高の理解者を失った」
ウォルトの死から6年後、アイワークスも72歳でこの世を去った
ウォルトが生前、パークを訪れた際に過ごしていたアパートがパーク内の消防署の2階に今もそのまま残されている
ここでウォルトは家族と過ごしたり新たなアトラクションの構想を練ったりしていた
ウォルトが滞在していた時に灯されていたというランプは現在も明かりが灯されている
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