泣ける日本人で紹介
世界が賞賛して止まない日本人の話。
日本野球がメジャーリーグと対等に戦えるようになる遥か昔…
18歳で大リーグと契約を交わした沢村栄治
1934年、京都商業野球部(現・京都学園高等学校)
甲子園で活躍した沢村は高校2年生、17歳で全日本チームに選出された
対戦相手は世界最強の大リーグ選抜チーム
1934年、日米大野球戦
人気も実力もはるか上の大リーガーたちが数多く来日
メンバーには世界のホームラン王:ベーブ・ルース、その年の三冠王:ルー・ゲーリックがいた
実力差は大人と子供
日本は全く歯が立たなかった
1934年11月20日、日米大野球 第10戦(静岡県・草薙球場)
先発は沢村栄治
世界最強のクリーンナップに対し160キロを超えたと言われる直球と大きく曲がりながら落ちるドロップで快投を見せた
結果は0-1で敗れたものの沢村は8回を5安打1失点9奪三振とほぼ完ぺきに抑えた
アメリカはその姿をこう伝えた“豪腕!スクールボーイ・サワムラ”
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●電撃!メジャー契約
1934年12月、大日本東京野球倶楽部に入団(現・読売ジャイアンツ)
国内唯一のプロ野球チームだった巨人は野球の本場アメリカで遠征試合を行っていた
試合を終えくつろいでいた沢村に男が近づいてきてこう言った
「スクールボーイ沢村をいつになったらウチの球団に渡してくれるんだ。約束はきちんと守ってくれよ」
差し出したのは大リーグの契約書
沢村のサインが記されていた
実は試合前にピッチング練習をしていた沢村
そこへ男が近づいてきた
「君は素晴らしい才能を持っている。サインしてくれないか?」
沢村はファンと勘違いし快くサインに応じた
契約書を持ってきた男は大リーグのスカウトマン
沢村は知らぬ間に入団契約書にサインしていた
もちろん巨人は猛抗議
契約は無効になった
1936年、日本で初のプロ野球が開幕
沢村栄治は巨人のエースとして活躍しプロ野球史上初のノーヒットノーラン(1936年9月25日)を達成
翌年には24勝をあげた
しかし太平洋戦争に突入した日本は沢村を徴兵、1944年フィリピン沖で戦死を遂げた
沢村の故郷、三重県伊勢市…
生家近くにある沢村のボールの形をした墓には「G」の文字と背番号14が刻まれている
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