古事記でオロチ退治の舞台とされている肥の川(現 斐伊川):木次
この川のほとりでスサノオ命と櫛名田姫命は出会い、スサノオ命はヤマタノ
オロチを退治して櫛名田姫命を救ったと言われている
実はこの川をさかのぼった山奥に2人の新居があったと言われている
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日本初の宮と古事記にも記されている須賀神社
ヤマタノオロチを退治した後、スサノオ命はこの地に新居を建て櫛名田姫命と暮したという
スサノオ命が詠んだという和歌の碑が建てられている
“八雲立つ 出雲八重垣妻ごみに 八重垣つくるその八重垣を”
幾重にも垣根をつくるように大切にあなたを守ります、という愛の歌
スサノオ命が櫛名田姫命に送った日本初のラブソング
須賀神社の近くにある八雲山
2人が住んだ宮がかつてはこの山の中腹にあったという
うっそうと茂る杉木立の中に「夫婦岩」と呼ばれる巨石がある
この巨石はいまでも地元でスサノオ命と櫛名田姫命の化身だと信じられている
2人はこの地でたくさんの子供を産み育て幸せに暮らしたと言われている
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現在の神社神道は日本書紀を基軸としている。神話の世界の話は、国津神=出雲、天津神=大和=天皇家祖神という2元論で語られ、出雲=根の国=黄泉の国という不吉なイメージを与えようとしている。しかし神道への深い思いがこういう、いじわるな解釈は本流の解釈として認定しがたい。
しかし今年、先に古事記編纂1300年となり、日本人が神道や神話について深く考えることを内々戦々恐々と見守っているのは神道関係者の一角ではないだろうか。古事記はかつて禁断の書で宮中の奥に眠っていたとされている。それを、江戸期の国学者本居宣長が解釈付きで世に知らしめたため、宮中の五摂家をはじめとする古代から続く貴族たちは当時同様な思いでいたに違いない。
五摂家は元をただせば、藤原鎌足にたどり着き、その子不比等が日本書紀の編纂時の有力者だったことを考えると、状況証拠だけで何となくその意図するところが分かるのである。天皇が万世一系として男系の血統を絶やさないことを大原則にしたがるのも、天皇の妃を自分の血族の女子を送り込み、外戚政治によって政権の中枢に永遠に居たいがためであった。現に、平安時代になると強力な外戚政治である摂関政治の形態を完成させ、藤原氏は大いに繁栄した。
つまりは、先に出た古事記と後の日本書紀の差異と言うものは、藤原氏にとっての都合不都合で変えたものと言う見方が当を得ているのではないかと思う。特に日本書紀は、大化の改新で対立し滅ぼした蘇我氏を徹底的に悪者にしている。最近、蘇我氏側の聖徳太子を悪く言う本が散見される。お札に載らなくなって権威が落ちたのかとも考えたが、これも藤原氏側の現在まで至る勢力によって日本書紀的論法が復活しているのかとも取れる。そこでの古事記1300年なのである。逆に言うと明治というこの古代勢力の復活の反作用として聖徳太子や武内宿祢をお札に乗せたのはよいバランス感覚でそれだけの碩学の士がいたということだろう。
以上のことは歴史学の専門家では到底発言できない。喋ると仕事を干されるからだろう。藤原氏側の人間は歴史に絡んだ分野の学問でネットワークをつくり目立たないように学術の指向する方向性を制御している節がある。歴史学の分野の人間の奇行を聞いたりする。出雲からこれ以上考古学的大発見が起こらないでほしい。と発言する人間がいる。あるいは、旧石器ねつ造事件のようにあのような不正の情熱は学問上の名声欲しさでは説明できない不気味なものを感じる。これは古い貴族システムを戦前に復活させたためであるが、このような、天皇にまとわりついて権力を維持しようとしていたのは藤原氏に限ったことではないと思う。しかも天皇家の血統が長く続いている(ようにみえる)理由もこの様なところから来ているものと言えなくもない。それで、記紀成立前後の(物部)→(蘇我)→(藤原)の権力変遷を念頭に、記紀成立の背景と考古学的な情報を基に以下展開を行う。
こういう視点で、出雲神話を考えると古事記にくらべ日本書紀は大幅にその記述が減じられているので、記述内容は藤原氏には不都合か不要だった。歴史的に考えると古事記成立時代に比べ日本書紀撰上720年は完全に文字時代にあり語部たちの顔色を窺わなくてもよかった時代だったかもしれない。
しかし古事記も712年とそんなに変わらないじゃないかとの反論も出るが、著名な古事記研究者、三浦佑之氏によるとその時代より5~60年古いものだという。それは天武朝あたりになろうが、そのころに神話を語る語部がいたと出雲国風土記には報告されていて、藤原氏が蘇我氏を滅ぼした大化の改新も丁度その付近にあるから一つの時代の節目だったのだろう。
それなら、古事記はどういう勢力を背景に書かれたかと言うと、その当の滅ぼされた蘇我氏系だったものと考える。天皇の祖神アマテラスと比肩させたスサノオは出雲地域で古くから四隅突出墳丘墓という石棺や石室を伴い墳墓表面に石を敷き詰めた様式の大型墳丘墓をつくり古くから作り、その作り方は後のたとえば蘇我馬子の石舞台古墳の方墳を思わせるものがある。さらに注意深く古事記を読むと、天地創造がおこり始めて具体的地点を指した地名が、国産み神産みをおこなった伊邪那美神の埋葬地、出雲と伯耆の堺の比婆山とあり、これも蘇我氏の本貫だった地点付近を指していることが考えられる。つまり天皇の祖神が現れる以前から、神々との関係があったことを匂わせる構図を取っているからである。具体的に言うと古事記では根之堅洲国とされる島根県安来市あたりであろう。
つまり、古事記も日本書紀と同様、蘇我氏に都合のよい作りになっている疑いが濃厚である。しかし、神話があれだけふんだんにあるのは、まだ語部の力が強い時代に編纂されたものだからだと思う。内容を削るとその分の失業者が現れ、問題が生じたのではないかと考えられる。語り部は、今でいう有名歌手のような地位を占め、神話各部をそれぞれのレパートリーとして、その人選は何かコンクールのようなもので決まったように思う。そうしないと、選りすぐりの人材が集まらないし、その能力の高さゆえ高いブライドをもっていたことが出雲国風土記の内容からも見て取れる。彼らはそれぞれの勢力の代表なのだから。
私はこのような状況下の編集方針は、以下の4点であったと考える。(1)内容は削ってはならない(2)内容の単語単位の言い換えは韻を踏んでいれば許される。(3)内容の追加挿入も許される。(4)内容の順番の入れ替えもある程度許されるが大幅には許されない。ということが考えられる。(1)の理由は先述したが、(2)(3)も同様である。(4)はABCDEFの並びをABCEDFは許されるがFBCDEAは許されていないと考えることで古さの権威と言うものを尊重した。いや、古事記神話のメインテーマーは蘇我氏が最も古い天皇を超える名家であることをひそかに語っていることを考えると当然かもしれない。(2)は和歌の技法や現代のダジャレに通ずるところもある。
神話時代は(天地神創造)→(出雲神話)→(国譲り)→(九州神話)と大まかにとらえられ神武東征に繋がる。ここで藤原氏が蘇我氏を滅ぼしたように蘇我氏も物部氏を滅ぼしている。あの強引な藤原氏でさえ日本書紀で蘇我氏自体の抹殺が出来なかったのは神話時代の出来事ではなかったことが理由と考えることもできるが、蘇我氏だって神話時代の編集方針に語り部の縛りがあることをここでは想定しているため、大豪族物部氏の神話がないのは不自然ではないか?と思われるのである(疑問1神話期物部不在)。これを解消しようとして出ていた書物である「日本先代旧辞本紀」は偽書とされているがそういった反動から重要視されていると考えられる。また、最も古い名家であると蘇我氏が言いたいのならもっと直接的に言うことが出来なかった理由もあり、そこに神話の複雑な展開の意味があるのではないかと言う疑問もわいてくる(疑問2神話展開の非直線性)。
ここで、出雲の考古学的展開を述べてみる。銅剣銅鐸の大量出土が島根県にいくと喧伝されているが、いずれもお祭り(今のイベント)の集客力を高めそれで権威を競っていた社会だったので、ビッグイベントが流通経路を変化させるといった社会的インパクトはあったことは十分考えられるが、それが今日の天皇に続く王権の発達に必ずしともつながらない。つまり、古代天皇の武断的イメージに直結するのはやはり鉄器の流入に端を発する。大勢の集団を動員しないと農地面積の拡大と蓄財は出来ず、王の墓を巨大にできず、戦争により領土拡大ができないが、いずれも鉄器が青銅器よりも圧倒する。というかもともと青銅器は祭器、楽器、巨大食器などでいずれも現代のイベントものに登場するものに向いていたというのが金属学的性質上妥当であり金銀銅ともそういった性質で世界各地の古代文明で展開されている。青銅器は木器と鉄器の中間的加工性を有し、鉄器は石器と青銅器のバランスを兼ね備えた使用時の耐久性能をもっているという関係がある。よって、前者はソフト的金属素材であり後者はハード的金属素材である。ここでもちいたソフト/ハードの関係は、ハードの革命はたまにしか起きず、それが起こるとソフト的展開が発達するが、それが飽和すると次のハード革命が無いとそんなに発展がないという現在の技術発展状況の比喩をしているのである。つまり青銅器はある種の変化をもたらしたかも知れないが、依然縄文性の文化を色濃く残していたことを意味していたと見たほうがよいのではと思う。
四大河文明圏などでは青銅器の時代が長く続いたので、金属を貨幣として用いる方法が広まった。その名残は、金がいまだ貨幣の代わりを狙っている状況に見て取れるが、極東アジアの事情は違い、青銅器なるものは断片的かつ短命で、鉄器に移行してようやく王権が確立し始めたとみるのが良いような感想を持つ。
こういった状況の中、画期的な書物が出ていた。弥生時代の先端技術で鉄器充溢社会を想定させる四隅突出墳丘墓に関する本が「四隅突出型墳丘墓の謎に迫る」出雲市教育委員会編ワン・ライン(1995)にすでに出ていた。しかしそれは最も輝いていた出雲の西半分の話が主題となり、それが古墳時代になるとぶっ潰れて清々したような締めくくりになっている。しかし、それでもそういった弥生後期の全国に先駆け王墓をもった出雲というものが、基本的には東西の二極の方墳文化の中心地があって安来、西谷を中心とした構造をとっていたことを物語っている。これは黄泉比良坂を境界として根之堅洲国と葦原中国で出雲が構成されていたとする古事記の記述と全き合致を呈するのである(たとえば、安本美典著「邪馬台国と出雲神話」勉誠出版(2004))。
全国に先駆け発展した王墓文化は大陸との結びつきの濃厚さを意味し、鉄器の出土数は北部九州に劣るものの多く出土し、それを効率的に使う集権的社会構造があったことを意味していると考古学者らも想定している。そういった先端的社会構造を持った出雲は弥生時代において既に北陸や東北と言った地方へ日本海沿いに展開した大勢力となったことが四隅突出墳丘墓の分布状態より明らかになっている。確かに北部九州が最も大陸の恩恵を受け、鉄器などの発掘数も最も多い地域であった。しかし彼らは吉備までを東限とし、それより東には鉄器が流通されていないことは考古学が明らかにして来たことである。
以上のような考古学的状況から歴史作家;関裕二は、当時大和への鉄の供給を止めた九州に代わり、大陸から出雲経由の鉄の流入経路を作り上げたことにより、出雲は発展したと分析している。ここで想像されるのは、当時の吉備を西限とした当時の東日本の社会と言うものを考えると、縄文的文化圏だったと考えられる。大陸からの移民や難民が縄文社会をつくったことは教科書に載るほどの定説であるが、北部九州圏や吉備圏の弥生人たちは縄文的な社会と敵対関係を作っていたことが考えられる。一方、出雲のやり方は同じ弥生人(当時の大陸文化を背景に社会を構成したものを本文ではそう呼ぶ。) でありながら、縄文人により懐柔的方法で、日本海沿岸部の広域に短期間のあいだ勢力形成が出来たのであろう。多分、元帝国が短い期間で大帝国を築いた方法論から考えると、大幅に縄文的風習に寛容だったのではということは、出雲が縄文食である蕎麦の西限に位置づけられることからも想像できる。このころの大和あたりから青銅器がおびただしく出るが、縄文人社会でも青銅器は容易に作れていたとも想像できる。あるいはアニミズム的宗教観から青銅器製造には熱心になったものの鉄器に至ってはそれが及んでいなかったのかもしれない。とにかく、祭祀(イベント)を成功させ縄文系文化圏の一大流通拠点になっていたのは想像に難くない。そこで祀られていたのが大物主であり、未だに「大三輪(大物主)はんは、神武はんより先や」と奈良県民が言うというのも頷ける話である。
このような縄文人の聖地に対し、弥生人たちは流通の拠点という物理的側面だけでそこを占領し、大和朝廷が出来たのが実際のところだろう。そのため大和朝廷は梅原猛がいうように、大和にいた神々を全部大国主に纏めて出雲で祀らせたのが出雲大社であるという旨を「神々の流竄」でいっていることは正しいと思われる。しかしそれでも縄文拠点であったという事実が、沢山の大寺院を建立してきたにもかかわらす奈良時代じゅう大和朝廷に不都合な影響(たとえば縄文人たちのテロのようなもの)を与え続けたため、ついに平安遷都を行ったというのがマクロ的に見た歴史的な真相ではなかったか?権力者同士の抗争に原因をもとめるものも多いが、首都移転と言うものはそういう動機では行われにくいと思っている。
出雲神話とだいぶ外れた論調になっているという印象を持つかもしれないが、梅原猛の言が180度変わっているという声を聴くが、かつてのベストセラー「神々の流竄」も最近の「葬られた王朝―古代出雲の謎を解く」もどちらも当たっているという側面を持っているが、それを統合する意思が彼にないのが寂しいといいたくなる。
それでは、すべて出雲神話がそういう縄文神の島流しのためにかかれているのかというとそうではない。入り組んだ構造をしている。まずオオクニヌシの神話は島流し理論で描かれているという説明は当を得ている。しかしイザナミやスサノオの話はそうではなく蘇我氏(あるいはそれ以前の大和で大きな力を持った葛城、賀茂系などの出雲系豪族)の伝承をかなり正確に伝えていると考えられる。つまり、王を中心とする国家の最初の提案者は出雲(蘇我系)なのだと。古事記には他にもこれを回りくどく言っている。オオクニヌシへも天皇家へも王権の証レガリアはスサノオ(蘇我系)が与えていると。つまり縄文/弥生とか大和/出雲という二元論がおかしいのであって端的に言うと、(縄文人)(出雲系弥生人=蘇我系)(非出雲系弥生人=物部系ほか)の三極構造の動きが大和王権(すなわち天皇制)の成立に深くかかわっているといった見方をする必要性を深く感じる。
このように考えると、スサノオとオオクニヌシは同じ出雲神のグループとしてあつかってはことを見誤る可能性がある。オオクニヌシは多くの呼び名があり、多数の勢力の神々を習合した神だと考えられる。これらの、神々の中心は大和政権を、大和を中心として作り上げていった時に征服された縄文系の勢力の神々であったと考えられ大物主も含まれる。
すなわち、オオクニヌシの後半の話で「国譲り」の話は、大和で繰り広げられた縄文VS弥生の攻防戦だったものであろうしそれが書き換えられたものと見なされる。そのため、その後大和はニギハヤヒ(吉備系=物部氏)によりなんの大きな争いごともなく支配している構図が描かれ、神武東征の話がこれに続くのである。この改変をおこなったのは古事記に先立って物部氏によって書かれた建国神話の時点であろう。まだ征服されていない縄文人たちにお前らの神々は出雲にいて、大和にはいないからあっちに向かえといって気をそらそうとしたものと考えられる。
この中で、物部建国神話を考えてみる。古事記は物部建国神話にスサノオ神話を書き加えたものとなっていて、ニギハヤヒの話も矮小化している。先に述べた物語の内容を削ってはならないという編集方針は物部氏が滅びたので通用しない。このくだりによって、物部氏は物部氏で天皇より古く、他の豪族より一つ頭上だということを主張していたはずである。そのほかはほとんど物部建国神話を踏襲しているが、神世七代のあたりは蘇我氏の国際的情報収集能力の高さを考えると海外の情報に触発され加筆されたのかもしれない。すくなくとも、伊邪那美の埋葬地が出雲と伯伎(伯耆)の比婆山とした内容は蘇我系の挿入があったとしてもおかしくはない。考古学的にも出雲は古墳時代に入ると、それまで出雲全域を支配していた蘇我系が、東部(根之堅洲國)は支配を維持したが西部(オオクニヌシの前半の話でいう葦原中国、後半は大和を意味している。)は吉備系(物部系)が占領し、そこにオオクニヌシを祀る出雲大社を建立したことが十分考えられるのである。西出雲はその後、古墳時代後期にはふたたび蘇我系が奪回に成功するが、その時点が物部氏の滅亡と時期を一にするのではないかと考える。このような顛末で、物部建国神話に出雲は導入され、それに蘇我氏がスサノオ神話を加筆することで古事記神話中の出雲神話は形成されていったものと考えられる。
古事記は近代に入り様々な影響を与えた。明治維新の尊王派の流れは古事記が発展を促した国学に源をたどることが出来る。それと薩長土肥の武士勢力を動力にして維新は成功するが、公家勢力が政治に関与するようになり、国家神道は日本書紀の理念で固められた。神社へ行ってみると良い。古事記風の須佐之男よりも日本書紀風の素戔嗚と書いたものの方が多い。今でも見えない力が働いていて伝統を愛するやり方に偏向がみられる。紙幣に聖徳太子や武内宿祢の肖像を載せることなどで中和する必要があると考えられる。
投稿情報: 極秘神道の研究者 | 2012/01/04 18:10