金スマで紹介
●日本人の知らないデヴィ夫人の壮絶な半生
1940年2月6日、東京都港区麻布霞町
当時 大工の棟梁をしていた父:兵七郎と母:政子の間に根本七保子が生まれた
後のデヴィ・スカルノ
彼女が生まれた翌年、太平洋戦争が勃発
七保子は母と幼い弟と3人で福島県へ疎開
中学卒業後、千代田生命に就職
450人中3人しか受からない難関を突破しての採用だった
しかし七保子は一流企業に就職したにもかかわらず、
お金を貯めるため昼休みや休日を利用して喫茶店でアルバイトを掛け持ちした
1956年、父が死去、当時 16歳の七保子の肩に一家の生活が重くのしかかった
1957年、七保子が17歳の時、知人の女性に日本で宝石商を営むジェイムズ・ベッカーを紹介された
ジェイムズはあっという間に七保子に心を奪われ、毎日のように七保子の知らない世界を見せてくれた
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●コパカバーナでの接客
そこは赤坂の超高級クラブ:コパカバーナ
世界の社交場として知られ世界中のセレブが集まる場所だった
この店の常連だったジェイムズは、事あるごとに七保子を連れてきては上質な時間を楽しんだ
するとそこへ現れたのが、コパカバーナのオーナー:長尾久子
「七保子ちゃん、ちょっとこの店手伝ってみない?」
何より母と弟のため、彼女はすぐに決心、コパカバーナで働くようになった
七保子が18歳の時、東日貿易の社長:久保正雄が現れる
インドネシアと深く関わる事業を行っていた
そしてある日、彼が突然「コパは辞めなさい。お金が必要なら僕がサポートする。七保子ちゃんに紹介したい人がいる」
●スカルノ大統領との出会い
1959年6月16日、七保子は久保と映画を観る約束をしていた
するとそこへ現れたのが外国の軍人
「根本七保子さんですか?ミスター久保から頼まれてきました」
案内された場所にいたのが、スカルノ大統領
スカルノ大統領は、1945年 長年支配されていたオランダから独立を勝ち取り、
インドネシア建国の父として愛される英雄
しかし当時19歳の七保子は、目の前にいる男がそんな大物とはつゆ知らず、いきなり彼の隣に通された
そして2日後の事、久保から自宅に連絡が
「七保子ちゃん、大変だ。大統領が七保子ちゃんと個人的にお茶をしたいと言っている」
スカルノ大統領と関係者たった4人だけのお茶会に招待された
さらに数日後、インドネシアに帰国したスカルノ大統領から手紙が届けられた
“あなたの写真が欲しい”
七保子はすぐに写真を添えて返信を送った
すると2ヵ月が経った頃、再びスカルノ大統領から手紙が届いた
“ポートレートありがとう。例えようもないくらい美しい。また会いたい。2週間くらいインドネシアに遊びに来ませんか?”
インドネシアに行くと七保子はバリ島の離宮に招かれた
日本への帰国が迫る中、「七保子。どうか私のインスピレーションとなり力の源泉となって私の人生の喜びとなってください」
大統領からのプロポーズだった
●デヴィ・スカルノ夫人
1959年、海を渡りスカルノ大統領の元へ嫁いだ七保子
七保子は大統領にとって5回目の結婚相手
一番目の妻と二番目の妻とは離婚
三番目の妻との間に5人の子供をもうけたが別居
四番目の妻とは国民の不信を買い別居
スカルノには関係を継続している妻は無く、七保子はファーストレディであった
大統領官邸にいた妻は七保子ひとりだけだった
●母と弟の死
大統領に嫁いで2年経ったある日、日本から電報が届いた
“母 危篤 すぐ帰れ”弟からの電報だった
高齢の母は週刊誌に追われ、何度も引越しを余儀なくされ体調を崩していた
その後すぐに帰国し病院へ駆けつけると、すでに意識のない状態…
帰国して40日が過ぎた頃…亡くなった
さらにその2日後、弟がガス自殺
弟の遺書には“姉さんへ 僕は人間失格です。生きている資格がありません。今までのことありがとう”
弟はあるサラリーマンに全財産のほとんどを騙し取られ失意のどん底にいた
そこへ母の死に目に会えなかったショックが追い打ちとなり自ら命を絶った
●名前と国籍を変える
日本に家族がいなくなった七保子はインドネシアに国籍を移した
この時、スカルノがつけてくれた名前が、ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノ
宝石の聖なる女神という意味
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●930事件と大統領との別れ
1965年9月30日深夜、スカルノ政権に不満をもった一部の軍人たちが7人の陸軍将軍を殺害
大統領もデヴィ夫人も幸い無事だったが、これを機にスカルノ政権は崩壊の道をたどる
そんな中、デヴィ夫人はスカルノ大統領の子を身ごもった
1966年11月、スカルノの勧めで日本で検査する事を承諾
本当にすぐに帰ってくるつもりでインドネシアを後にした
しかしこの日が元気なスカルノ大統領を見た最後の日になろうとは知る由もなかった
日本に着き早速 病院で精密検査を受けたデヴィ夫人
医師からは日本に留まるように忠告され、2週間の予定での渡航が長期滞在へと変わった
1967年3月7日、無事、娘:カリナを出産
皮肉にもカリナが生まれたその日の事、スカルノ大統領が失脚
インドネシアで国民審議会が開かれ終身大統領の座をはく奪され、その実権を奪われてしまった
それは日本でも大々的に報道されデヴィ夫人の元へもマスコミが押し寄せた
身も心も疲れ果て、娘を伴いパリへ移住した
パリへついてしばらくすると一通の手紙が届いた
“愛しい愛しいデヴィ 体の調子が悪く私はベッドに横になっている”
大統領の地位をはく奪され宮殿を追われたスカルノからの手紙だった
デヴィ夫人はいてもたってもいられず娘とインドネシアに向かった
だがインドネシアへの中継地点であるバンコクへ着くと、
昔からよく知るインドネシア大使:ユスフ将軍が現れた
とって変わったスカルノ政権下ではデヴィ夫人がインドネシアへ入国することは自殺行為
結局、カリナを連れて帰国することは叶わなかった
それから程なくしてマスコミからの電話で最愛の人の危篤を知った
今度こそはと危険を顧みずインドネシアへ入国することを決意
2人を乗せた飛行機はジャカルタに到着、死と闘うスカルノに面会した
その翌朝、1970年6月21日、スカルノ大統領 死去
国中が涙で溢れ、インドネシア建国の父 スカルノの死を悼んだ
その後、パリに戻ったデヴィ夫人は深い悲しみを振り払うかのごとく働きに働いた
未開発国の国家的プロジェクトと大手会社をつなぐコンサルタントや
建築工事、機械設置などのエージェントとして活躍
●銀行家との恋
無我夢中で働いている頃に出会ったのが、スペインの銀行家:フランシスコ・パエサ
2人はたちまち惹かれあい、再婚を考えるまでに
力を合わせて最高のパートナーになろうとスイスで銀行を経営
それがスイスの銀行家たちに疎まれ、銀行のライセンスをはく奪
当時スイスではスイス人以外が銀行を設立することは詐欺罪にあたった
彼は夫人をパリに避難させた
その後、莫大費用を擁し銀行を解体、すべての預金を返済して事なきを得たのだが、
フランシスコは居住権の問題で訴追された
デヴィ夫人は持っていた宝石を手放すなどして1億円以上の保釈金を工面したのだが、
あなたに愛される資格はない、という言葉を残し、彼は姿を消してしまいお金が戻る事もなかった
フランシスコとの恋が終わり、しばらく経ったある日、デヴィ夫人の前に現れたのは、
エルゼアド、サブラン ポントベスト公爵
彼はルイ14世の家系でパリ全女性の憧れ
恋に落ちた2人は婚約を発表したが、7年間の関係は結婚に至らなかった
理由は夫人が白人でないことに加え、彼は城を所有しており、その維持費は莫大
フランス上流社会の慣習で公爵と結婚するには相応の持参金が必要だった
フランシスコの保釈金の為に財産を使い果たしていたデヴィ夫人にそんなお金は残っていなかった
こうして婚約は破棄、その後のデヴィ夫人はインドネシアに戻り、石油、ガス分野の事業で成功し財産を築き、
ニューヨークの社交界で10年間 活躍
そして2000年ごろから日本のテレビ番組に出演
娘:カリナは銀行家と結婚し、一児の母となっている