偽りの作曲家:佐村河内守
両方の耳が全く聞こえないにも関わらず絶対音感を頼りに
80組にも及ぶオーケストラ「交響曲 第1番 HIROSIMA」など数々の名曲を世に生み出してきた
日本のみならず海外からも称賛を浴び、“現代のベートーベン”と讃えられた
自叙伝によると…
1963年9月21日、佐村河内は被爆2世として広島に生まれる
4歳の時から母による音楽の英才教育を受け、ピアノ、バイオリン、尺八など
様々な楽器に取り組む
10歳にしてショパンやベートーベンを弾きこなす
この頃から目標は演奏者ではなく作曲家になり交響曲を作る
高校卒業後は作曲家をめざし上京
しかし音大に進学することはなく独学で音楽を学んでいた
アルバイトの傍ら、クラシックレコードや楽譜を元に作曲を学んだいった
1996年、33歳の時、作曲家として映画楽曲製作の依頼を受ける
新垣氏と出会ったのは、この頃…
大学音楽専攻の講師になったばかりの新垣氏に、ある話を持ちかけた
「このテープにはとある映画音楽用の短いテーマ曲が入っている。これをあなたにオーケストラ用の楽曲として仕上げてほしい。私は楽譜に強くないので…」
出来上がった楽曲は素晴らしく、それからは自分でテーマ部分を作るのをやめた
佐村河内が楽曲の構成、コンセプトだけを伝え、新垣氏が作曲する
作曲者の欄に新垣氏の名前が載る事はなく、全て佐村河内氏が作曲したものとして発表された
報酬は楽譜1曲に対し、現金を引き渡す取っ払い
その楽譜がCDになって何万枚売れようが新垣氏は関係ない、印税は一切もらえない
しかし…「私は18年間 佐村河内守のゴーストライターをしてきました」と新垣氏が告発
桐朋学園大学非常勤講師:新垣隆
“私が出会った佐村河内守氏は音楽の専門教育を受けているとは思えませんでした。楽譜が全く書けない。正式なクラシックを勉強した形跡もない”
新垣氏は佐村河内守の経歴を虚偽だと断言
“私は何度も彼に「もうやめよう」と言ってきました。ですが彼は「曲を作り続けて欲しい」と執拗に懇願し続け、私が言おうと納得しませんでした”
“昨年暮れには私が曲を作らなければ「妻と一緒に自殺する」というメールまで来ました”
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そして新垣氏は会見を開いた
私は佐村河内氏と出会った日から18年に渡り、彼の代わりに曲を書き続けてきた
佐村河内さんが世間を欺いて曲を発表し続けている事を知りながら
指示されるまま曲を書き続けた私は、佐村河内さんの共犯者です
障害をお持ちの方々、また彼の言葉を信じて曲を聴いて下さった多く方々、
見事な演奏をしてくださった演奏家の皆さま、
本当に申し訳ありませんでした
当初は軽い気持ちで曲を書く事を引き受けてきました
彼を通じて私の書いた曲は世の中に受け入れられ嬉しかった気持ちがあったことは否めません
しかし彼がどんどん世間に知られるようになり、
それにつれてその関係が、やがて世の中に明らかになってしまうのではないかと
不安を抱くようになった
同時にこれ以上自分の大好きな音楽で世間を
欺きたくないという気持ちが私の中で大きくなっていきました
私は何度かに渡り「こんなことはもう辞めよう」と言いました
しかし彼は聞き入れてくれませんでした
また「あなたが曲を書かないと私は自殺する」と言いました
そのような中、フィギュアスケートの高橋大輔選手がソチオリンピックで滑る際に、
私の作曲したソナチネを選ばれた事を知りました
このままでは日本を代表してオリンピックで活躍する高橋選手までが
彼と私の嘘を強化する材料になってしまうと思いました
しかしこの事実を知った高橋選手が受けるショックのことを考えると
今 公表するべきかどうか迷いました
ただ私が何も言わず高橋選手がオリンピックで競技された後に
事実が発覚した場合、高橋選手は非常に戸惑うのではないでしょうか?
さらには偽りの曲で演技したではないか、と世界中から日本に非難が殺到するかもしれません
色々と考えた結果、高橋選手にはこの事実を知ったうえで
オリンピックで堂々と戦って頂きたいと思い、
本日、このような会見を開かせて頂くことになりました
高橋選手、そして音楽作品を聴いて下さった皆さまには、
本当に申し訳ない事をしたと思っております
深くお詫びを申し上げます
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(佐村河内氏との関係は?)
彼とは知人を介してお会いしました
彼が映画の音楽を担当することになり、
彼が必要としたオーケストラのための作曲をできる人を探してほしいと知人が頼まれ、
私のところに連絡が来ました
(代作を止めようと思った経緯)
当初は彼の映画やゲーム音楽のアシスタントとして関わっていました
この時においては映画やゲームを作る一人のスタッフとして特に問題は感じていませんでした
彼がある時期から「自分は耳が聞こえないのだ」と世間にそのような態度をとった時、
その上で彼の名で私の曲を発表するとなった時点で
それは非常に問題のある事だと思いはしたのですが、
そこではまだ止めようという感情は無く、彼に従い私も曲を書き続けました
去年の5月にピアノの曲を提出した時に、もうこれ以上は出来ないと思いました
そこから彼に何度かこの関係を続けていくことはやりたくないと伝えました
(佐村河内氏の聴力について)
初めて彼と会った時から今まで特に耳が聞こえないという事を感じた事は一度もありません
私が録音したものを彼が聴き、それに対してコメントする事は何度もありました
(吹奏楽部の小品について)
2006年にある高校の吹奏楽部に「吹奏楽部の小品」というタイトルの楽曲を提供
それも私が作りました
彼がある高校の吹奏楽部の先生とコンタクトを取ったのがきっかけ
その学校の吹奏楽部のために曲を書きますと言い、それによって私のところに依頼が来ました
この曲に関しては構成や図案といった指示はなかった
顧問の先生のリクエスト、ゲーム音楽を製作していた事を踏まえて作って頂けないか、
という依頼だったと思います
(報酬は?)
18年間で20曲以上を提供してきました、700万円前後だと思います
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