爆報!THEフライデーで紹介
2000年、13歳年下のダンサー:大澄賢也との離婚騒動
地位も年齢もかけ離れた格差婚と騒ぎ立てられていた結婚だった
そして小柳ルミ子への大バッシング
“別れた夫に慰謝料一億円を請求!”
“元夫にタレント辞めるか?慰謝料払うか?迫る”などのマスコミの見出しが誌面に
離婚騒動は福岡で暮らす小柳の母にまで飛び火
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●歌手:小柳ルミ子と母の確執
1952年、福岡県に生まれた小柳ルミ子
父はルミ子が3歳の時に他界
遺された母は異常なまで教育に熱心だった
歌手になる夢を抱いていた母は、自らが叶えられなかった事で、
ルミ子が生まれる前から娘を歌手にしようと決めていた
そのため、ルミ子は小さい頃から、
ピアノ、歌、バレエ、習字、ジャズダンス、日本舞踊、タップダンス、三味線など8つの習い事を掛け持ち
習字を習わせたのは歌手になった時のサインのため
母は家計を切り詰めありったけのお金をルミ子の英才教育
(歌手にならなければいけない…)ルミ子は母からそんな呪縛をかけられていた
15歳になると母が望んだ宝塚音楽学校に進学した
そして宝塚音楽学校を首席で卒業し、芸能界入りを果たす
18歳の時、「♪私の城下町」で歌手デビュー
19歳で「♪瀬戸の花嫁」が大ヒット
日本歌謡大賞、日本レコード大賞歌唱賞など数々の賞を受賞
母が娘に託した夢を見事 叶えてみせた
だが母は「おめでとう」もなければねぎらいの言葉もない、
決してルミ子を甘やかす事はなかった
全てを母に従うように生きてきたルミ子
その後もヒット曲を出し続け、スターにのし上がっていった
「(当時、母が)嫌いでした。いわゆる母の優しい愛情を感じたことが無かった」
とルミ子は語っている
●あの離婚騒動の裏側
そして2000年の大バッシング…
この時、ルミ子は自殺を考えるほど追い込まれていた
家では情緒不安定に陥り錯乱状態
そんなルミ子を救ったのは「信じとうよ」という母の一言だった
「私の娘だけん。こんな事には負けないって信じとうよ」
以後、どんなバッシングに動じることなくルミ子は仕事だけに没頭
その1年後、末期ガンを宣告された母
看病のため、母を東京の病院に呼び寄せた
それから付きっきりの看病生活が始まったが、
2006年12月12日、静岡でディナーショーのサウンドチェック中に医師から電話が、
「お母さんの意識がなくなりました」
肉親は私だけすぐにでも駆け付けたい…しかし、
「受話器を母の耳にあててください」
ルミ子は必死に「♪瀬戸の花嫁」を歌い上げた
その歌を最後に母は静かに眠りについた
ディナーショーを終え、母の元に駆け付けたルミ子
枕元に母が書いた手紙が置かれていた
“ルミ子 ルミ子のお陰で楽しい人生でした ありがとう”
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