伝説の引退スペシャルで紹介
●ヨーコ・ゼッターランドがアメリカ代表として日本の敵となったワケ
1969年、アメリカに生まれたヨーコ・ゼッターランド
アメリカ人の父と日本人の母の間に生を受けた
しかし1975年、6歳の時に両親が別居、母と共に日本に移り住む
名前も堀江陽子と変わった
この頃、英語しか話せなかった陽子は小学校の同級生たちからいじめを受けた
バレーボールと出会い光をもたらす
実は母:方子はバレーボールの元日本代表
母に連れられママさんバレーチームに参加
中学に入るとセッターとなり母親譲りのバレーボールセンスは開花
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全日本中学選手権大会で優勝を飾った
1983年、日立の練習に合流するよう連絡が来た
当時 日本の女子バレー界は日立を中心に回っていた
チームを率いる山田重雄は同時に日本代表の監督も務め、中心選手は揃って代表メンバーに名を連ねていた
学校が終わるとすぐに日立の体育館を訪ねた
そこには全日本のユニホーム姿で練習する日立の選手の姿があった
それは普段から日本代表の自覚を持たせるための山田監督の指導方針だった
その後、陽子はバレーの名門:中村高校に進学
春高バレー3位、インターハイ3位、国体では見事優勝を果たした
昔も今も、高校卒業後、日本代表選手を目指す選手は実業団(Vリーグ)に入るのが常識とされている
1986年、陽子にも実業団から多数のオファーがあった
誰もが陽子は実業団に進むものと思っていた
本人もそのつもりだったが一方で別の選択肢も浮かんでいた
実は母の方子が陽子の大学進学を望んでいた
しかし、大学に進学すると日本代表から遠のくかもしれない、陽子は答えを出す事ができずにいた
ある日、その悩みを知った知り合いのバレー関係者からある話が持ちかけられた
「大学に行きながらでも実業団の練習に参加できるように私が話をつけるよ」
大学で勉強しながら実業団の練習に参加する、それならば母の願いを叶え、高いレベルでプレーを続けることもできる
陽子は大学進学を表明した
1987年、早稲田大学に特別推薦枠で入学
だが、実情は違っていた…実業団の練習に参加する事は出来なくなったという
大学に通いながら実業団でプレーする陽子のプランはもろくも崩れた
突然、プレーする場所を失った陽子は早稲田大学の女子バレー部に入部する
当時、早稲田の女子バレー部は関東大学リーグの6部のチーム、同好会レベルだった
1987年、大林らジュニアのトップ選手が集う代表合宿に召集された
そこで突きつけられたのは厳しい評価
この年を最後に年代別の代表チームからも陽子に声がかかる事はなくなった
そして卒業を控えても日本代表レベルの実業団からのオファーがなかった
陽子はバレーとは関係のない一般企業から内定を得た
大学卒業を間近に控えた1991年1月、母からある提案をされた
「もしあなたにアメリカの代表でやる気があるならトライアウトがあるらしいの。挑戦してみない?」
当時、アメリカと日本の2つの国籍を持っていた
陽子はアメリカ代表のテストを受け、そして見事に合格した
その直後、日本に帰国した陽子はアメリカ国籍を選んだ
名前も堀江陽子から再びヨーコ・ゼッターランドへ
翌年、開かれるバルセロナ五輪アメリカ代表12人に選出された
そして1992年、陽子はバルセロナ五輪に立った、その予選リーグ初戦の相手は日本だった
その試合には負けるが、アメリカは勝ち進み銅メダルを獲得
一方、日本は2大会連続でメダルを逃した
1996年、アトランタ五輪
再び日本との対戦を迎えた
自国開催のアメリカはこの試合に勝てば決勝トーナメント進出
日本代表は負ければ史上初の予選リーグ敗退という崖っぷち
この日のアメリカは何かがおかしかった
ベンチスタートの陽子の目の前でイージーミスを連発する
気がつけばあっという間に0対9、日本に大きくリードを奪われていた
何とか流れを変えたいアメリカはここで陽子を投入
陽子の登場で一変、アメリカは怒涛のポイント連取
9点もの大差を逆転した
勢いづいたアメリカは続く第2セットも連取
そしてアメリカが勝利した
この陽子の活躍はアメリカの有名スポーツ誌、アトランタ五輪で最も印象に残ったシーンとして紹介された
そしてアトランタ五輪を終えた陽子に日本から嬉しいオファーが届く
それは日本の実業団チームからの誘い
1996年、東芝シーガルズに入団
翌年にはVリーグのダイエーとプロ契約
中心選手としてチームをリーグ優勝に導き、日本の頂点に立つ
そして1999年、現役を引退した
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