ザ・世界仰天ニュースで紹介
1989年11月9日、東ドイツ、30年もの間、人々の自由を奪っていたベルリンの壁が崩壊した
しかも一人の負傷者もいない歴史上稀にみる平和的解決
●ある一人の勘違いがきっかけで崩壊したベルリンの壁
それはある一人の勘違いから起こった事だった
歴史上もっとも素晴らしい勘違いと後に言われた
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1949年、第2次世界大戦に敗れたドイツは東西2つに引き裂かれ、
資本主義国の西ドイツと社会主義国の東ドイツが誕生した
その時、東ドイツに位置した都市:ベルリンも西側と東側に分裂した
東ドイツの中に西側の西ベルリンが存在する事に
やがて東ドイツから多くの国民が豊かさを求め西側へ流出し出すと、
1961年、東ドイツ政府は西ベルリンを囲む約155㎞にも及ぶ壁を作った
それがベルリンの壁
東ベルリンから西ベルリンに入れれば飛行機などで西ドイツへ行くことができ、自由が得られる
一方、無断で壁を越えようとすれば射殺されることもあり多くの若者が犠牲となった
1989年、東側のハンガリーは自由化へ向け歩き始めていた
すると東ドイツの人々もハンガリーを経由し、西ドイツへ渡っていく者が増え始めた
やがて東ドイツ国内では、旅行の自由、言論の自由など改革を求める多くの人々が大規模なデモを起こし始めた
そんな動きに政府も困り果てていた
そして運命のベルリンの壁 崩壊の日(1989年11月9日)…
東ドイツ内務省では国民の旅行について新しい政令を考えていた
数日前には100万人規模のデモが起きている、一刻も早く沈静化しなければ国家の存続が危ぶまれる
そこで旅券局長だったゲアハルト・ラウターはデモを静めるためのある大胆な政令案を考えた
それは“外国旅行を無条件で認める”
“出国ビザを遅滞なく発給する”という規制を大幅に緩和する政令
じつは当時パスポートを持っていたのは東ドイツ国民の4人に1人
しかも出国ビザは何段階もあり申請だけで日数がかかる
これで西側へ一気に流出することもないだろうと考えていた
そして、その政令案に重要な一文を書き加えた
“報道機関への発表は明日午前4時以降とする”
ラウターの考えた政令案は中央委員会で承認された
この委員会に遅れて登場したのがギュンター・シャボウスキー
報道官に就任したばかりのシャボウスキーは記者会見の準備に追われ会議に遅れた
詳しい内容を全く把握せずに書類を受け取ったシャボウスキー
そして午後6時、世界各地から200人もの記者が集まる中、運命の記者会見が始まった
会見の時間を割いて当たり障りのない内容を発表
会見も終わりに近づいた午後6時51分、記者団の中からある質問が飛び出した
「イタリアANSA通信のリッカルド・エールマンと申します。国民から非難を浴びている出国規制について政府はどうするおつもりですか?」
これにシャボウスキーは焦った
委員会に遅刻したため、その件については内容を把握していなかった
そこで先ほどの書類を見ると“外国旅行を無条件で認める”の一文が目に入った
すると、そこから読み始めた
「東ドイツ国民は自由に外国旅行する事を許可します」
報道解禁前の内容を話し始めてしまった
「いつ発令されるんですか?」
動揺するシャボウスキー
その目に飛び込んできたのは“出国ビザを遅滞なく発給する”の“遅滞なく”の単語
「私が知る限りでは…今でしょう。そうです。そうです。東ドイツ国民は今すぐ全ての国境通過点からの出国が認められます」
一方その頃、政令案を作ったラウターの下には法務大臣から連絡
「この政令案は規制を緩め過ぎなので修正してほしい」
しかし時すでに遅く…この会見はすぐにテレビで大々的に報道された
これを聞いた東ドイツ国民はベルリンの壁へ押し寄せた
何も聞かせていなかった検問所はどんどん膨らむ群衆に大慌て
国境警備隊のイエガー中佐は司令部に指示を求めるが、司令部も混乱
その間にもどんどん人が集まり続け、国境警備隊では太刀打ちできない
そこでイエガー中佐は決意した
「もう私が判断を下そう、みんな出してやれ!」
こうして午後11時30分、ついにおよそ30年間ドイツ国民を分断していたベルリンの壁が解放された
このベルリンの壁崩壊をきっかけに、翌年、東西ドイツは平和的に統合
それをきっかけに東欧の社会主義政権やソ連も崩壊
長きに渡る西側と東側の冷戦の終結を迎えるに至った
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