3億円事件を44年間追いかけてきたジャーナリスト:近藤昭二が語った
●今だから話せる3億円事件の真相
1968年12月10日、東芝府中工場のボーナス約3億円が強奪された3億円事件
ボーナスを運搬していた現金輸送車に白バイ警官に扮した犯人が接近
現金輸送車を停止させ、
「車にダイナマイトが仕掛けられている」と運転者らを車から遠ざけた
そして現金輸送車の下に発煙筒を焚き、ダイナマイトだと偽装して車を強奪
当時、犯人のモンタージュ写真も作成され、警察官延べ17万人、捜査費用9億円を投じ大捜査
事件から44年経った今でも犯人が見つからない戦後最大の未解決事件
1975年12月10日、公訴時効(刑事事件の時効)が成立
1988年12月10日、民事時効が成立
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●モンタージュ写真はモンタージュではない
目撃者の証言から目や鼻、口などを合成して作り上げたモンタージュ写真と言われているあの有名な写真
しかし、それはモンタージュではないと云う
それはある実在の人物の顔写真
捜査本部の刑事たちもモンタージュ写真と疑わなかった
警視庁の捜査担当者を取材している時に近藤昭二氏は捜査資料のファイルに謎の顔写真を発見
捜査担当者が席を立った隙に複写
そこにはモンタージュ写真の人物と同一人物が写っていた
モンタージュ写真そっくりの男の写真は何からの事件の被疑者写真だった
近藤昭二氏はその男を全国追いかけ、3億円事件が起きた府中のそば、調布在住だと突き止めた
モンタージュ写真そっくりの男は、3億円事件の1年半前に死亡していたことを知る
●なぜ3億円事件の前に死亡した男の写真がモンタージュに使われたのか?
モンタージュに使われた理由は事件5日後に自殺した19歳の少年
少年は府中管内の第八方面交通機動隊の幹部の息子
現金輸送車の運転手たちに疑いのある人物の写真を複数見せたところ、全員が自殺した警察幹部の息子の写真を犯人に似ていると選んだ
モンタージュにされた男と自殺した少年は良く似ていた
警察幹部の息子の写真は使えないので、そっくりさんをモンタージュと称し使われたいた
●自殺した少年の仲間が発煙筒事件を起こしていた
それはスーパーで発煙筒をダイナマイトのフリし強盗した事件
発煙筒を使用した3億円事件と酷似している
調べていくと自殺した少年と仲間は現金輸送車強奪計画を立てていたことが分かった
ボーナス日を知っていた東芝の総務のコピー係は少年たちの仲間だった
捜査本部は事件から2日目に少年をマーク、少年が自殺した日にも捜査員が自宅を張り込んでいた
警察幹部の父親が帰宅後、張り込み刑事は引き上げた
その後119番通報、救急隊員は倒れている少年を診療所に運び、死亡が確認された
少年の死因は青酸カリだった
●自殺に使われたとみられる青酸カリは自宅の天袋に隠されていた
警察は新聞紙に包まれた青酸カリを押収、鑑識に出した
すると500g入りの瓶の中が5g減っていた
少年の部屋にあった2つの紅茶茶碗の1つから青酸反応があった
捜査資料によると“包装紙から父親の左指一個の指紋が検出されたが自殺者本人の紋は検出されなかった”
●少年の友人の証言
3億円事件の重要参考人でありながら事件5日後に自殺した警察幹部の息子
「いやあれは自殺ではない。あの時あの状況で死ぬようなタマじゃないよ」
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●元警視庁捜査一課:鈴木公一が語る3億円事件
事件が起きたその日、殺人事件担当だった元警視庁捜査一課:鈴木公一も緊急出動した
1968年12月10日午後1時30分(事件発生から4時間後)、府中警察署に特別捜査本部設置
3億円の重さを体で感じるため同じ形のジュラルミンケースが捜査本部に運び込まれた
ジュラルミンケース1個の重さは29.4キロ、それが3ケース
冬のボーナス4523人分の茶封筒が3つのケースに分けられ詰め込まれていた
正確な金額は2億9437万5500円
●犯人が残した遺留品は全部で153点
白バイに見せかけたオートバイは青いバイクに塗装を施したもの
後部座席の書類入れは、クッキーの空き缶
サイレンスピーカーは運動会などで使うトランジスタメガホン
赤色灯は市販されていたストップランプ
●捜査員がまとめた不良少年のリスト
グループごとに拠点となる地名がつけられていた
福生署管内 赤線を中心とする非行少年グループ、新宿紀の国屋2期生…
中でも3億円事件と同じ手口の事件を起こしたグループが立川窃盗グループ
1968年3月3日、客を装った若い男がダイナマイトに見せかけた発煙筒で店員を威嚇し、
従業員が怯んだ隙に12万円(現在の価値で80万円ほど)を奪った「いなげや事件」
鈴木公一は徹底的にこの立川窃盗グループを洗うべきと主張
立川窃盗グループは三角窓を壊して車を盗む
3億円事件で使われた盗難車も同じ手口で盗まれていた
●立川窃盗グループの実態
仕事している者は少なく、恐喝、泥棒、親のすねかじりで生きていた
少年は立川窃盗グループのリーダー的存在
3億円事件の3か月前、青梅のボーリング場での恐喝事件で逮捕
鑑別所から荒川の保護施設に移送中 脱走し、その後 行方不明となっていた
12月16日午前2時ごろ、少年は自殺した
●2度に渡る少年の面通し
鈴木公一には知らされず、上司の指示により
犯人の顔を見た日本信託銀行員が監察医に変装し少年の面通しを家族に悟られないよう行った
少年の顔を見た銀行員は小さくOKサインを出した
さらに鈴木公一も銀行員4人を伴い家族に知られないように通夜客に交じり面通しを行った
痩せ具合が良く似ている95%、口から鼻が似ている80%、眉の生え際が似ている90%…など
●立川グループと少年の足取り
11月30日夕方6時ごろ、少年は福生のバー「あんず」を訪れ、一旦いなくなり深夜2時ごろ再び戻っている
この空白の8時間、少年はグループの誰とも接触していない
この空白の時間帯に事件に使用された車が盗難されている
12月3日~6日までの間は立川グループの仲間と遊んでいた
しかし事件の12月10日と前日の9日だけ少年の足取りはつかめていない
12月11日、福生のバー「あんず」で豚足を食べていた
「スナックをやりたい。金は家に頼んで出してもらう。名義は母親にして…20歳くらいまで逃げるだけ逃げて、自首すれば刑事処分を受けて執行猶予で出る」と仲間に語っている
12月14日21時過ぎ、少年は馴染みの喫茶店に顔を出している
●少年の父と面会
鈴木公一は少年の父と面会した
「なぜ少年は死ななければならなかったのか?」「あの日、何が起きたのか?」など問うた
しかし少年の父はずっと押し黙ったまま
●立川グループの溜まり場 福生のバー「あんず」
マスターのF氏は立川グループの中で兄貴分として慕われていた
F氏は事件後 福生から姿を消し、フィリピンに渡り、クラブを経営し成功していた
●事件後、金持ちになったY氏
事件前夜、新宿の男性の家に泊まった、と少年のアリバイを証言したY氏
事件から数年後、新宿を離れ、Y氏が購入した港区の高級マンション
そして新宿の高級マンション、ハワイのコンドミニアムも次々と購入している
Y氏を知る人物によると「今思うとあれだけのマンションをどうやって買ったのか不思議だった」
●Y氏の証言
1968年11月上旬、新宿にあった24時間営業の喫茶店:シローで少年と出会った
少年は「お腹が減ってるんだ」と言ったので、アパートでご飯を一緒に食べ、そのまま泊めて揚げた
それ以来、何度か家に泊めてあげたことがあった
3億円事件から1週間ぐらい経ったころ、少年の母親が訪ねてきた
玄関先で「あなたのせいで息子がこんな事になった」と怒っていた
母親は「息子の荷物が置いてあるなら持って帰りたい」と言ったので
以前、少年が入れて持ってきていたズボンやシャツを母親に返した
母親の話で初めて少年の死を知った
少年は父親にすごく反発しているようだった
当時悪心塾は大学生が暴れていた
歌舞伎町ではみんなお金を稼ぐのに必死だった
マンションを買って売って、その差額でプラスになった事もあった
Y氏は新宿を離れて以来、仕事は何もしていないという