奇跡体験!アンビリバボーで紹介
ケッタッキー・フライド・チキン
カーネルサンダースの秘密
●カーネル・ハーランド・サンダースの壮絶人生
1890年、アメリカ インディアナ州ヘンリービルで誕生
5歳で父を亡くし、母は農場で働いていたため兄弟の面倒をみるのは彼の仕事だった
ある日、どうしても母に会いたくなった彼は、幼い兄弟を連れて5キロ離れた母が働く農場へと向かった
初めて焼いたパン、思いのほか上手く焼けたのでどうしても母に見せたくなった
「初めて焼いたパンを褒められたことが忘れられず料理に興味を持つようになった」と後に語っている
やがて10歳になったサンダースは家計を助けるため、農場に働きに出る事になった
しかし、仕事に集中していないという理由で1ヵ月も経たずに農場を解雇された
母は怒らずに「仕事で一番大事なことはベストを尽くす事よ」
ベストを尽くす、それはサンダースの胸に深く刻まれた
サンダースは13歳で家を出ると都会で様々な仕事を経験した
その数20以上…
37歳になった時…
アメリカ南部ケンタッキー州にあるガソリンスタンドが経営者を探している事を知り店を預かる事になった
経営者となったサンダースは他の店により2時間も早い朝5時に店を開くと、あるアイデアで評判を得る事になる
当時、アメリカのガソリンスタンドで車の窓を拭くサービスはほとんど行われていなかった
サンダースは時折やって来る客に徹底したサービスで応えた
するとその評判を聞きつけた客が増えていき、いつしか彼のガソリンスタンドは見違えるような繁盛店になっていった
ガソリンスタンドをはじめて2年後の1929年、のちに世界大恐慌と呼ばれる不況がアメリカ中を襲った
サンダースが経営していたガソリンスタンドもその波にのまれた
交通量は激減、結局サンダースはこの年店を手放す事を余儀なくされた
翌年、彼は別のガソリンスタンドを経営することになった
ガソリンスタンドを再開したサンダースに再び天気が訪れる
客がもらした一言がきっかけだった
「長旅で腹が減ったんだが、この辺りは何にも無いようだね」
サンダースは空腹でやって来るドライバーのため、
ガソリンスタンドの横にあった倉庫を改造
テーブル1個だけの小さなレストランに造り替えた
サンダース・カフェ
料理はサンダース自らが作った
子供の頃から料理が好きだったサンダースは自分の腕を試す絶好のチャンスでもあった
メニューは幼いころ、母親が作ってくれたアメリカ南部の郷土料理
サンダース・カフェは国道を利用する者たちが必ず立ち寄る場所になった
やがて通りの向かい側にも店舗を拡大
テーブルを6卓に増やし、新しいレストランを開店した
ある日、ケンタッキー州知事から、街を活気づけたとケンタッキー州の名誉称号を授与された
この称号こそ、ケンタッキー・カーネル
カーネルサンダースのカーネルとは称号のことだった
カーネルとは元々軍隊の大佐を意味する称号
しかしこの頃には軍事に関係なく一般人にも贈呈されていた
サンダースは州の食文化の発展に貢献した事が評価された
町の名士となったサンダースだったが、これに満足することなく日々メニューの改良を続けた
中でもひときわ力を入れて改良に取り組んでいたメニューがフライドチキンだった
サンダースが育ったアメリカ南部では鶏肉は馴染みの食材
フライドチキンは定番のもてなし料理だった
サンダースは鶏肉にまぶす小麦粉にハーブや香辛料を混ぜてみる事にした
さらにスパイスの組み合わせを何百通りも試し、実際にチキンを揚げては客や従業員に試食してもらい、意見を取り入れるそういった作業を繰り返した
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そして49歳の時、ついにある調合に辿り着いた
合わせたハーブとスパイスは11種類
現在、店頭に並ぶチキンも同じ11種類のスパイスで味付けされている
こうして完成したオリジナルのチキンは看板メニューになった
これに自信をつけたサンダースはガソリンスタンドを手放し、レストラン経営に専念
そんな矢先、サンダース・カフェが原因不明の火災により全焼してしまった
10年かけて徐々に大きくしていった自分の店が一夜にして灰になってしまった
再建資金もなく、もうレストラン事業は諦めるしかなかった
しかし常連客の励ましによりサンダースは店の再建を決意
資金集めに奔走する日々が始まった
火災から2年後…1941年
150人近くの客を収容できる大型レストランとしてサンダース・カフェを復活させた
そして圧力鍋の設備投資により、チキンの量産を可能にした
サンダースは借りていた資金を1年で全額返済した
しかし新たな道路の整備が進み、サンダース・カフェの前は交通量が激減
旅行者やトラックドライバーが主な客だったサンダース・カフェ
レストラン事業以外にも手をだしていたが、上手くいかず多額の借金も抱えていた
62歳にして絶望の淵に立たされた
サンダースはあるアイデアがひらめいた
そのアイデアを若きレストラン経営者:ピート・ハーマンに聞かせた
それは…誰にもマネのできないフライドチキンの味をアメリカ中のレストランに売っていきたい
サンダースのアイデアはフランチャイズと呼ばれる契約の仕方
当時の外食産業では初めての試みだった
ピートはサンダースと契約を結び、フライドチキンが1つ売れるごとに5セントを支払うと約束してくれた
さらにケンタッキー・フライド・チキンと名付けた
ピートの店はケンタッキーフライドチキン1号店として大きな看板を掲げた
サンダースは25年経営してきたサンダースカフェを売却
そのお金は全て借金返済にあてられ、結局手元には何も残らなかった
65歳にしてすべてを失った
サンダースは本格的にフランチャイズ店を探す旅にでかける
サンダースは妻と共に来る日も来る日もフライドチキンの味をアピールし続けた
その旅はケンタッキー州を超えカルフォルニア州、オレゴン州、ユタ州など広範囲に及んだ
実際にチキンを振る舞う時、南部伝統のドレスを着た妻が客をもてなした
そしてサンダースは料理を作り終えるとアメリカ南部の正装で登場
それは現在のカーネル人形と同じスタイル
セールスの旅をはじめて1年が過ぎた頃…
ある日を境にフランチャイズの問い合わせが次々と舞い込むようになっていた
ユタ州のピートの店でちょっとしたトラブルが起きていた
スタッフが訪問販売の口車に乗せられて、本来必要のない紙バーレル(紙製の容器)を大量購入、処理できずにいた
ピートが考えたアイデアが紙バーレルの中にチキンとビスケットを詰め込みテイクアウト用のセットを販売
するとこのセットは飛ぶように売れた
持ち帰りの客だけでも十分に利益が上がり立派な店舗を構える必要もない絶好のビジネスチャンスととらえ始めた
しかも大行列がその宣伝効果をあげ新規開店を考えるオーナーが急増
3年間で200ものフランチャイズが誕生した
こうしてサンダースはアメリカを代表する経営者の仲間入りを果たした
日本を大変気に入ったカーネル・サンダースは、生前3回も来日した
ケンタッキー・フライド・チキンがある世界中の中で3度も訪れたのは日本だけ
●創業者カーネルサンダースを模した店頭に立つカーネル人形は日本限定
元々はカナダのとある店舗でイベント用に作られた人形が原型
長年、倉庫に保管されていた
40年前、日本ケンタッキーの創設スタッフが宣伝のために持ち帰った
店頭に立つ人形は日本限定
創業当時は赤白のイメージから理容店と間違える人も多く、それを防止する役割も果たした
●こだわりはメガネ
人形がかけているメガネは本物の老眼鏡
実際にカーネルは老眼鏡をかけていた
●会社員と同じように転勤を繰り返している
古くなったカーネル人形は工場に回収される
その店舗には修理済みの別の人形が置かれる
工場に運ばれた人形はパーツごとに修理、塗り直しが施される
工場で待機、他店の人形が修理に出されたら入れ替わりにその店舗へ置かれる仕組み
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