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●鬼才ダリと妻ダラ
1904年5月11日、サルバドール・ダリ誕生
その2年前、両親は男の子をもうけ、その子をサルバドールと名付けたが、ダリが生まれる10か月前に病死
父は死んだ子を愛し、そのことが忘れられず、2人目のサルバドールにこう言い続けた
「お前は兄の生まれ変わりだ」
“僕は死んだその人の単なる複製なんだ”
自分を死者と同一視することでダリは次第に“自分は死んでいる”と思い込むようになる
そんなダリの唯一の理解者が母フェリーパ
友達も少なく情緒不安定だったダリの唯一の楽しみは絵
12歳になると父の別荘があった街、カダケスの画家:ラモン・ピチョート氏に勧められ
本格的に絵画技法を学び始めた
その後、地元の美術展へ出品するなどで腕前を上げていく
17歳の時、最愛の母:フェリーパが他界
ダリの残されたのは絵を描く事だけ
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1921年、サン・フェルナンド美術学院に進学
その頃から髪を伸ばし派手な服装を好むようになったダリは巨匠ピカソに傾倒し始める
頭角を現したダリは突然“自分を評価できる人間はここにはいない”と宣言し、学園を去った
1927年、フランス・パリのピカソの下を訪れた
多くの女性を愛したピカソに対し、ダリは奥手
ピカソはダリの才能を絶賛した
1929年、当時25歳だったダリの前に35歳のガラが現れた
友人だったフランスの詩人:ポール・エリュアールの妻として、そして13歳の娘の母として
ひと夏を友人の別荘で過ごす為、カダケスを訪ねた親子3人に会った瞬間、ダリの心は奪われた
ガラは若い頃から若い芸術家のミューズであり続けてきた
夏が終わる時、夫と娘はフランスに帰り、ガラはカダケスに残った
1930年、倉庫を改築した家で暮らし始める
それまで家事もしなかったガラだが、ダリには献身的に尽くした
母を亡くして以来、ダリは初めて信頼できる人を得た
そんな生活が2年を過ぎた頃、ガラが用意したカマンベールチーズを食べようとしたダリに強烈なインスピレーションが湧いた
すぐさまキャンパスに向かった彼は描きかけだった絵にある物を一気に描き足した
そして生まれたのが「記憶の個室」
チーズに着想を得たと云う溶けた時計が描かれたこの絵こそダリの最も知られる絵である
ダリはガラを得る事で自分の心に潜む闇を作品に消化することが出来るようになった
ダリはガラに対して
「何よりもガラのおかげで確信したことがあります。それは自分が思う以上に自分は平凡な人間ではなかった事です。なぜなら彼女はすぐに私の才能を信じてくれたのです」
1934年、ダリとガラは正式に結婚した
1934年、ニューヨークへ渡った
無名のダリのため手を尽くした
そしてジュリアンレディ画廊で個展を開くとダリの作品はアメリカでも大絶賛された
一躍人気者となったダリは1936年、TIMEの表紙を飾った
大金を手にしたガラは愛人を作り再び奔放な生活を始めた
一方、ダリはガラの行動から目を背けるかのように名作を生み出し続ける
さらにそれまではほぼ無かったガラ自信を描き始めた
しかもそれは現実のガラより若く、現実の表情より穏やかで優しく…
だが、ガラの男漁りはエスカレートするばかり
芸術家でも漁師でも見境いなし
中には元夫のエリュアールまで入っていたと言われる
そしてますます金が必要になったガラは勝手に契約を結び、金は自分がとってダリを監禁してその絵を描かせたとも言われる
悪魔となったガラだが、ダリにとってミューズだった
奴隷のようになって描いた絵も他人から見れば傑作だった
心の中の絵の中のガラは聖母となった
現実のガラの行動が酷くなればなるほど作品の中のガラは高みに昇っていく
1964年、60歳になったダリは元々はガラの夢でもあったダリ劇場美術館の建設を開始
そして1974年に完成
中でも力を入れて描かれたのがフレスコの天井画
“昇天していくダリとガラ…それぞれの足が描かれている。ガラの足元に描かれた金…その下にはカダケスの海岸を見つめる2人の姿”
美術館オープンの日、ダリとガラは別々に入場し、ガラは天井画を見る事さえなく美術館を後にした
当時2人は完全に別居状態
ダリがガラに会うためには事前の許可が必要だった
1982年、ようやくダリの住む家にガラが戻ってきた
しかし88歳のガラは病に侵されていた
ダリは病床に伏せるガラの為、プロポーズをした海岸が見える場所にベットを置いた
その3か月後、ダリが生涯で唯一愛した女性、ガラは帰らぬ人となった
1989年、サルバドール・ダリ 永眠
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