別冊アサ秘ジャーナルで紹介
●巨大な廃墟:軍艦島
長崎港から船:軍艦島コンシェルジュに乗って30分
・軍艦島コンシェルジュ「軍艦島上陸・周遊ツアー」3900円~(TEL:095-895-9300)
かつては海底炭鉱の島として栄え、時代に取り残された巨大な廃墟となった通称:軍艦島
海に浮かぶその形と煙突の煙から連想され軍艦島と呼ばれた端島
1890年、現・三菱グループが島を買い取り石炭の採掘基地として開発
良質な石炭が採掘されたことから小さな坑内に炭鉱の労働者とその家族が住むための当時最先端の集合住宅、さらにはお店から学校まであらゆる施設を建設
最盛期の1960年当時には5267人が居住し、東京都の人口密度の9倍を誇っていた
その後、国のエネルギー政策の転換により、1974年に海底炭鉱は閉鉱
その結果、無人島となるも今では全世界で類を見ない産業遺産として注目されている
イルカがヒレを広げたような形状のドルフィン桟橋
ドルフィン桟橋が出来る前は護岸から7mの桟橋を突き出して、先端にワイヤーのハシゴをつけてよじ登っていたと云う
上陸し、かつて地獄門と呼ばれたトンネルを抜けると島の中へ入る
軍艦島は東側と西側で区画が分かれている
内海に面し波の穏やかな東側は炭鉱の中枢が集中し、地中深く掘られていた海底炭鉱へと降りるための櫓や事務所、採掘した石炭の集積場や船着き場などがあった
一方、外洋に面した西側は24時間体制での操業を可能にするため炭鉱の労働者とその家族が死後t場に通うために暮らした居住地域となっていた
密集する集合住宅は防波堤も兼ねていた
元々の島の原型は高くそびえる岩礁までで、平らの地面は6階に渡って埋め立てて作られた土地で半人工的な島
堅坑の最深部は地下1000mで閉山直前まで第二、第四堅坑が稼働していた
今も残る精炭運搬用ベルトコンベアーは製錬した石炭を運ぶためのもの
軍艦島のコンクリートには海砂を使用している
塩分を含む海砂によって鉄筋が錆び、コンクリートを押し割り、もろくも崩れ始めている
軍艦島では当時本土で貰える給料の数倍の金額を稼ぐことができた
給料を貰うと長崎で豪遊し、金が無くなると戻ってくる、そんな労働者も少なくなかった
ちなみに優秀な作業員は兵役を免除されていたと云う
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1958年に建設された端島小中学校は異例の7階建て
最盛期には1170名もの子供たちが通い、学校の前の校庭では運動会も開催されていた
1970年に建設された体育館、閉山の僅か4年前の事
1964年8月に坑内で自然発火によるガス爆発が発生し、消火のため深部(地下800m~1000m)の坑道を水没させた
この事件の後、「閉山だ」と云う噂が一気に広まり、労働者が半分も減った
三菱グループは閉山しない意思表示のために体育館を建てた
他、スナック、パチンコ屋など、教職員のアパートを新築して閉山の噂を打ち消そうとした
しかしその4年後、閉山した
1974年1月15日、閉山式はその体育館で行われた
1958年に建設された端島病院
端島銀座と呼ばれた島一番の目抜き通り
石炭ラッシュで景気の良い軍艦島の乗客を見込んで長崎半島から多くの行商人たちが渡ってきた
中には氷枕に入れられた闇焼酎も売られていた
1950年に建てられた67号棟には独身の男性が暮らしていた
その向かいの建物の4階がナースの宿舎だった
目を盗んでは女性が忍び込んでいたと云う
太平洋戦争中に完成し、最盛期は1500人が暮らした10階建ての65号棟
1918年に建設された17号棟 鉱員社宅、通称:日給アパート
その名の通り炭鉱の日給で生活する労働者が住んでいた高層住宅
間取りは6畳と4畳半、当時軍艦島でひと世帯が暮らすには平均的、やや広めの部屋だった
屋上には青空農園
コンクリートしか知らない子供たちのために土いじりや緑に接する機会を与えるために造られた
ここでは野菜や花、さらには米まで作られていたと云う
1957年に建設された幹部用の職員住宅 3号棟は丘の上
特別な建物で内風呂、内水洗トイレを完備
丘の頂上には神社が鎮座
毎年4月3日に山の神様に安全や無病息災を祈願した山神祭が催された
唯一の派出所には2人の警官が駐在していた
島内には3軒の遊郭、雀荘、映画館など施設も充実している
無かったのは墓と火葬場だけ
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